18歳まで出身地の函館に住んでいた籠嶋さんは、同級生や地元の仲間たちとバンドを組み、当時流行していたビジュアル系バンドをしていたのだとか。
「メイクはしていなかったんですけど(笑)。11歳からギターを始め、中高生時代はバンド仲間と函館のライブハウスやリハーサルスタジオに入り浸っていましたね」。
高校卒業後、札幌で大手総合楽器メーカーが運営する音楽教室のギター講師の職に就いた。その傍ら、札幌市内のライブハウスやジャズバーで演奏するプロのギタリストとして活動した。
「さまざまなご縁がある中で、23歳の時、音楽ディレクター・プロデューサーにならないかとお誘いをいただいて、大手音楽プロダクションに入ることになりました」。
ジャンルはJ-POP。札幌で活動する若手や新人アーティストを担当し、アーティストのコンセプトや売り出し方の企画立案、楽曲制作やアルバムの制作全般を取り仕切る統括者へと転身した。また、プレイヤーでもあった籠嶋さんは、作編曲、レコーディングといった技術的な部分も担うことができ、音楽制作をトータルでサポート、数多くのアーティストを世に送り出した。指導を含むと、関わったアーティストはバンドやシンガーなど1,000組を越える。
「拠点を東京に移した時代を含めると約15年、大手音楽プロダクションで活動しましたが、東京は子育てには厳しい環境。30代後半で退職を決め、住み慣れた札幌に戻ってフリーで音楽活動を始めました。ですが、まもなくして新型コロナウイルスが流行し、仕事がゼロになってしまったのです」。